前へ戻る

FANS1000回公演によせて

八戸地域の演劇の聖地:スペースベンで芝居を見てきた。
『劇団INTELVISTA公演 短編集2nd』
(2013年4月27日(土)18:00~、4月28日(日)14:00~、18:00~)
はちのへ演劇祭でお世話になった方々が出演するからという理由だけで見に行ったわけではない。演劇には観客が必要で、観客なしに演劇は成立しないが、その必要要員になるために行ったわけでもない。演劇とは、それをその時見た人だけで共有されるメディアである。そして演劇とは時代を映す鏡である。20年以上の歳月、八戸の演劇文化を支えてきたスペースベン。クリエイティブな空間というのはそうそうあるものではない。

はちのへ演劇祭以降のスペースベンで、今どんな演劇が創られているのか知りたかった。それを知るためには上演会場へ実際に足を運ばなくてはならない。その時劇場の中に自分が居なければ、どんな演劇であれ、演劇には立ち会えないのだから。スペースベンへと向かったのは、八戸地域の演劇文化の「現在」を知り、それに立ち会うためである。

ところで舞台を観るときに心がけていることがある。それは「そこでどんな演劇が成されたのか」「そこにどんな演劇があったのか」を見落とさないこと。もちろん演目の話ではない。舞台が演劇的であること、そして上演作品の演劇性が何より重要だと思っている。

だからだろうか。今回の舞台公演がどんな演劇であったのか、それを書くのが自分の役目な気がした。演劇は上演するだけで終わるべきではなく、評される価値があるものについては、ちゃんと評され、かつ論じられるべきである。そうでなければ文化ではなく芸術ともいえない。

この日、スペースベンでの演劇に立ち会った者の責任として、劇評が演劇をつくる人間の糧となり、演劇と批評が文化を創ることを知っている者の義務として、この芝居について書き残しておく必要がある。そう思った。

『劇団INTELVISTA公演 短編集2nd』は、短編戯曲4作品の連続上演である。全作品とも作者は沼沢豊起(敬称略、以下同)。
作品タイトルおよび演出、出演者は公演パンフレットによると次の通り。

1.春だからね
演出:田面木昭憲 出演:田中勉
2.フラクタル~ベルリン封鎖と私の金魚~
演出:織笠静子 出演:田面木昭憲、吉田美香
3.男とカメラと女
演出:田面木昭憲 出演:加藤健太郎 声:中川香
4.手紙もじゅーる
演出:織笠静子 出演:田面木昭憲、加藤健太郎、田中勉、吉田美香

パンフレットとチケットには、おっさん3人の笑顔が映っていた。パンフレットの公演案内にもおっさんの笑顔について書かれてあった。どうやら「おっさん」というのは今回の公演に欠かせないキーワードのようである。
おっさんについては後でまた触れることにして、4作品のそれぞれについてストーリーを紹介しながら少し書いてみよう。



1.『春だからね』 4月、会社の飲み会の会場。舞台上には丸椅子が4つ。部長におべっかを言うおっさんが主人公の一人芝居。革製の四角いカバンがある。重たそうであるが中身を取り出すことは無く小道具類はパントマイムで演じられるのでサラリーマンの象徴として用いたという印象。

登場しないが背のすらりと伸びた若い女性社員におっさんはタジタジだ。人目をはばかることなく抱きついてくる彼女。年上の男性が好みだと言う。肩で泣かれてやむなくタクシーで送ることに。

美人の彼女がまさか。いや、そんなわけはない。そう思っていたが彼女の素振りは意味ありげで、ついついお持ち帰りを期待しついに行動に出る。が、しかし完全なる勘違い。彼女は普段通りの顔で去っていく。おっさんはつぶやく。「春だからね。」

この言葉は全てを蹴散らす名ゼリフであった。全ては幻想。これまで舞台で行われた全てのことは幻だったのだ。魅惑的な部下の女性などもともと存在しない。なるほど、だから極端に背の高い女性だと分からせるための演技を見せたのだ。隣に立つ女性を見上げるシーンがあったが、ハイヒールを履いたスーパーモデルに話しかけているようであった。おっさんの首の角度は女性の身長が高いことを表現するためと思っていたが、そうではなく、つまり相手は宙に浮いていたのだ。そもそもおっさんの他に誰もそこには存在していない。「現を抜かす」の言葉通りおっさんの現実は完全に抜け落ちていた。だから小銭も缶コーヒーもパントマイムで演じられていた。しかもすべては春の陽気のせいだという。天晴れという表現はふさわしくないかもしれないが、春に春を見てしまったその理由が春のせいなら、誰ももうとやかく言えるものではない。

「春だからね。」のセリフによって不確かなものは全て消え去った。確かなものは、おっさんと四角いカバンと4つの丸椅子だけである。

四季の始まり「春」がタイトルについた4月の物語。舞台に置かれた4つの椅子と四角いカバン。4本連続上演となる今回のインテルビスタ公演の1作品目に、4の数字が多く出没するのにはわけがある。それは「数」、とりわけ「4」が今回の演劇のカギであることを示している。


2.『フラクタル~ベルリン封鎖と私の金魚~』
続く2作品目では歴史が語られる。「歴"4"」である。4つの作品を順に追い、4作品を通して公演の履歴を見る必要があるようだ。 

歴史書を読み上げる女性と、子供だった頃を懐かしむおっさんの二人芝居。歴史書に書かれているのは東西ドイツの分断、ベルリンの壁の誕生、そして壁の崩壊。人類の重大な歴史である。

一方おっさんの小さな歴史はこうだ。一つの部屋を兄と二人で共有していた子ども時代、ある日を境に部屋の真ん中にバリケードを築かれる。兄の領域に侵入することは許されない。血を分けた兄弟を引き裂く子供部屋の壁。大人の事情で築かれた巨大な壁と子供の事情で築かれた子供部屋の境界線がシンクロし面白おかしく展開される。

舞台に出てくる小道具は歴史書のみ。大きな壁も小さな壁も観客はその実体を見ることは出来ない。世界が壁で分断されるのではなく、壁がある社会が成立することを意味しているから壁は目に見えないのだ。「そもそも戦争や壁など無意味なもの」ということを見える化した演出ともとれる。平和を愛さない人類などいない。人類にとって戦争は生理的に受け入れがたい現象である。

世界を隔てる大きな壁は、市民の平和への希望という大いなる生理によって崩壊したわけだが、子供部屋の壁は少年の小さな生理現象をきっかけに撤去された。部屋の中でオシッコをオモラシされては権力者の兄の心も崩壊する。子供部屋にはきっと境界線の無い黄色い地図が描かれただろう。出来ればそれを見たかった。


3.『男とカメラと女』
3本目。三脚つきのビデオカメラと登場するおっさん。何かの撮影をしているが、それが何なのかは明かされない。コンテストがあるようで、そのための「作品」を撮っているのだと説明される。映画かもしれないし、CMやプロモーションビデオのようなものかもしれない。が、最後まで秘密にされ「作品」とだけしか言われない。撮影現場にはもう一人いる。ヒロインだ。舞台上には現れないがセリフがあり、かわいい声が聞こえる。

ヒロインとの切ない最後の撮影シーン。その撮影風景が舞台上で演じられ、観客は撮影される人物と撮影する人物の両方を見ることになる。「アクション!」「はい、カット!」の声が響き、俳優兼カメラマン兼監督のおっさんがたった今舞台で演じられ実際に撮影された映像を入念にチェックする。撮影時にヒロインが言ったセリフがそのまま聞こえてくる。観客にはヒロインの姿は見えないが、カメラには可愛い姿がちゃんと収められていることがわかる。

しかし、すでに撮影されていたカメラの中の別の映像をチェックする場面になると、PLAYボタンを押しても再生された映像を観客は見ることが出来ない。カメラに内蔵されたスピーカーから小さく、舞台上で撮影されたものとは違う音声が聞こえてくる。観客が知らない物語をカメラは知っているのだ。

全てを見ていたカメラによって「作品」が語られる。つまりビデオカメラは小道具ではなく第三の登場人物なのである。それを気づかせるためカメラは三脚に備え付けられていた。映画でもCMでもPVでもなく「作品」と言っていたのも理解できる。カメラは撮影機器ではなく作品づくりのパートナーで、だから演技を意味する「PLAY」を押してカメラを芝居に参加させた。一見一人芝居と思えるかもしれないが、この作品はタイトル通りの三人芝居である。3人目の演技者には目も耳も口も、そして三本の脚も備わっていた。


4.『手紙もじゅーる』
4本目は、面接で採用試験に合格し就職したばかりのおっさんが主人公の4人芝居。初仕事として指示された「前任者」の私物整理に取り掛かる。過去にそこにいた見ず知らずの人間の荷物が段ボール箱にまとめられていて、後任となった見るからに善人そうなおっさんが段ボールの中の手紙をひとつひとつ読むことで「前任者」の素性が明らかになっていく。というストーリー。

手紙というのは差出人と受取人の2つの要素で成立する。主人公以外の3人は、「前任者」に宛てて手紙を出した人物である。主人公が段ボールから手紙を取り出して読むと、同じ文面が書かれた手紙を持って亡霊のように舞台に登場し、それを読み上げる。

様々な手紙のやり取りによって「前任者」の精神は破たんしていったようだ。理不尽な内容の手紙が次々と読み上げられる。受け入れ難い、厳しい内容が書かれた自分宛ての手紙。封を切り中身を読んだとしても、書かれた内容を受け入れることが出来なければ、その手紙は受け取っていないのと同じ意味になる。かつて若かった時に当時の恋人に宛てて書いたが、出せず仕舞いで保管されていた手紙もそれに含まれる。

相手に伝えるという役目を果たせない手紙は亡霊のようだ。物体として届けられるだけで、思いや気持ちといった伝えられるべき肝心な中身は届けられず、あてもなくさまよい続ける。となると、段ボール箱に詰まっている手紙は亡き骸であり、それが入っている箱は棺桶ということになる。

善人だった「前任者」が抜け殻となり、公認の後任者は私物整理と誤認していた。仕事と思っていたが、知らず知らずのうちに棺桶を暴いていたのだ。それに気づいた物語の終盤、「前任者」とは自分であったことを知る。いわゆるどんでん返しで幕は閉じたのだが、どんでん返しとは、言うなれば「誤認による産物」である。



今回のインテルビスタ公演を読み解くカギは「4」と「数」だと言った。それに基づいて「誤認による産物」を書き直すと、「"5"認による"3"物」となる。「4」を取り囲む2つの数を最後に配置することで「4」と「数」の意味づけを決定的にしている。この「数」による演劇的な昇華は成功し、劇性もより深まったと言っていい。私物整理とは「"4"物整理」であるから、この「4」と「数」が仕組まれた演劇的要素であることは疑う余地が無い。

このことは全体を通してみても明らかである。1作品目から4作品目にわたって、一人芝居から4人芝居へと出演者の「数」が1つずつ増えている。いわゆるピラミッド型の人数配置。こういった劇構造は偶然出来上がるものではない。ただのこじ付けと思われるかもしれないが、これは綿密に仕組まれた暗号である。

真実の目をもって暗号を解読せよというメッセージは、4作品目で現れない者を「前任者」と呼ぶところにも隠されている。現代演劇において「現れない者」は極めて重要な演劇的要素である。ここでは「現れない者」=「前任者(主人公)」であるから、重要なことはひとつ前にあるからひとつ前を見ろという意味になる。前の作品、つまり3作品目にヒントがあるということだ。

3作品目に「真実の目」が登場していた。三脚の上部に設置されたビデオカメラである。三脚とカメラは、プロビデンスの目によく似ている。アメリカ合衆国の1ドル紙幣にも描かれている「三角ピラミッドと目」のデザインと言ったら分かってもらえるだろうか。フリーメイソンが用いるシンボルの一つでもあるプロビデンスの目をわざわざ舞台に登場させているのだから、この芝居に暗号が組み込まれているのは明らかだ。暗号によってこの演劇は成立している。であれば、仕組まれた暗号を解読することでこの演劇の構造は暴かれることになる。

ちなみに米国の国章裏面にも、三角形に目を配したこのデザインは使用されている。「米」の字を見てみると八角の形状をしているとわかる。八戸の「8」でもあるが「8」は「4」の倍数で、「4」の倍はつまり「芝居」となる。今回のインテルビスタ公演はまさしく芝居であった。今回の公演は4本を寄せ集めた公演ではなく、4本それぞれの上演と見るのでもなく、4本で1つの演劇として捉える必要がある。そのことを暗号は示している。

しかしなぜこんな暗号を。フリーメイソンの影がどこかにあるようだが、それに触れるわけにはいかない。とまれもう少し暗号を解こう。

終演後、今回の公演がFANS1000回目の公演であたことがアナウンスされた。FANSとは、スペースベンで開催される演劇などの公演のことで、こけら落とし以来20数年続けてきた結果、今回で1000回を数えるに至った、ということである。かつては毎週金曜夜に新作を上演していた。社会人劇団、学生劇団、高校演劇部、あるいはプロ劇団の公演など、様々な演劇人が新作の発表の場として、あるいは地方公演の場としてスペースベンを選んだ歴史がFANSなのである。

「4」と「数」で紐解かれる今回の公演が、1000回目の公演であることも偶然ではない。いや、1000回だから「4」と「数」で読み解くことが出来ると言った方がいいだろうか。数字の「1000」は漢字で書くと「千」で、算数字の「4」に非常によく似ている。それは上矢印にも似ているし、そして北の方角を指す印しともとれる。

はちのへ演劇祭に関わった演劇人でなくともすぐにわかるはずだ。演劇の街:八戸の復活をスローガンに掲げた演劇祭に携わったおっさん3人が、このインテルビスタ公演のパンフレットの表紙を飾っている。「芝居」は「4」の倍で、「4」の倍は「8」である。八戸は「演劇の街」でなくてはならないと、ここでも主張されている。"北"の街、八戸の演劇文化の更なる"上昇"を「千」の数字におっさんは託したのだ。

おっさんについてもここで触れておく。おっさんとはつまりアルファベットの「O(オー)」が3つで「"O(オー)"さん」なわけで、「1000」には「O」が3つある。あえてFANS1000回目に合わせておっさん3人が新たな演劇を生み出した理由である。おっさんは「お"3"」であり、似つかわしくないが「お産」でもある。今回のこの演劇を"産"むのは"3"人の「おっさん」でなければならなかった。

FANS1000回公演という金字塔を打ち建てたスペースベン。もちろん1000回はゴールではないだろう。金字塔はピラミッドの和訳であり、「神の全能の目」を意味するプロビデンスの目は、三位一体の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられるがその三角形はたいていピラミッドである。神がかり的な暗号が秘められた『劇団INTELVISTA公演 短編集2nd』は、記念すべき1000回にふさわしい演劇作品であったと言える。

こういう演劇体験が出来るというのはとても幸福なことだ。演劇だからこそこういう読み解き方が出来る。これまでもスペースベンで色々なことを学んだ。街には演劇が無くてはならない。ということは、八戸にはスペースベンが無くてはならない。スペースベンが無くては八戸で演劇的な幸せを探すのは難しいかもしれない。スペースベンはこれからも幸せをくれる芝居小屋であって欲しい。

幸せと書いたが「幸せ」は「"4"あわせ」のことで、「4」を合わせると「8」である。「8」を横にすると目の意匠になる。1000回の金字塔の上に目である「8」を冠し、八戸は「4」の倍(芝居)の街だと示して見せた。だからフリーメイソンと疑われてもしょうがないと諦めてもらおう。ただ、1千回は通過点で上矢印さながらに常に上を向いて歩くことを宣言し、このままでは終わらないと言わんばかりの気迫にも似た1人の「おっさん」の何かがきっとこの演劇を演劇足らしめたのではないか。と思う。

芝居について書くことは、芝居の裏側を書くことでもあったりする。「8」は裏返しても「8」である。末広がりでもある。起き上がりこぼしでもある。七転び八起きともいう。ディレクターであり、プロデューサーでもある劇場主が秘密結社のメンバーかどうかについて言及する必要はない。北の街で千の演劇を創った男がいる。これは都市伝説ではなく現実である。その男はこれからも新たな演劇を生んでいくに違いない。だってどこからどう見ても、おっさんなんだから。

FANS1000回公演を心から祝福したい。その思いでこの文章を書いた。
ついでに明日もうひとつ年を取ることへのお祝いにもなれば、これ幸い。

2013年5月17日
(文責 平葭健悦)

前へ戻る

事業内容

スペースベン

舞台支援

第三回はちのへ演劇祭

第11回八戸ダンスプロジェクト